ももしきの 大宮人は 去き別れなむ
額田王は山科の鏡の山で誰と別れてきたのか
2012年6月9日公開
本稿で引用する歌は基本的に『日本古典文学大系 万葉集 (岩波書店) 』によるものです。『新編日本古典文学全集 万葉集 (小学館)』から引用することもあります。それぞれ『大系』、『新編全集』と略することにします。
山科の御陵より退き散くる時、額田王の作る歌一首
やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に
夜はも 夜のことごと 昼はも 昼のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや
百磯城の 大宮人は 去き別れなむ (二・一五五)
枕詞「ももしきの」は「百年以上前の昔の、大昔の」という意味であると論じてきました。 一五五は天智天皇の葬儀後、参列した大宮人が一人また一人と式場を去ってゆく時の歌とされています。額田王らは天智陵に仕えている。 天智天皇を御陵に葬り、近江へ戻る時の歌とすると、「もしきの大宮人」=「百年以上前の大宮人」が存在しないことになります。
しかし、すでに例示した「三重の采女説話」、「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」、「順徳院の歌」、「ももしきのすまひ」、「山部宿禰赤人が伊予の温泉に至りて作る歌」における「ももしきの」は「百年以上前の昔の,大昔の」が成り立つ思っています。
互いに容れない命題はどのように解決されるべきか。正直に言うと、私は自説に自信を持っているが、一五五についてはよくわからないとしかいいようがないのです。 それでも若干思うところを述べることにします。
一五五は巻第二近江大津宮御宇天皇代(天智天皇)の挽歌に入れられています。
一四七・一四八は天皇が重篤に陥った時の歌です。一四九・一五〇は崩御した時の歌、一五一・一五二は殯宮の歌(一五三・一五四も殯宮の歌と思われる)、そして一五五で問題の額田王の歌が出てきます。 時系列でいうと一五五を葬儀後の歌として何ら問題がないようにも思えます。
しかし、本当にそうでしょうか。 悲しみの表現の順序からするとおかしいと思います。
大切な人が亡くなった時、その現実をすぐには受け入れられなくて慟哭 ・ 泣き伏す ・ 泣き崩れる言葉はいろいろですが取り乱すことはあると思います。 病で先がないとわかっていても、程度の差はあれ、なかなか現実を容れられないと思います。 時が経つにつれ感情が和らぐのが普通です。 私にしても、父の納骨の時には、悲しみよりも人の一生とはこういうものかとの感慨が残ったのです。
死去から殯宮、本葬まで何日間隔で行われたかは知りませんが、殯宮での額田王の感情は抑制的です。
天皇大殯の時の歌二首
かからむと懐知りせば大御船泊てし泊りに標結はましものを 額田王 (一五一)
やすみししわご大君の大御船待ちか恋ふ志賀の辛崎 舎人吉年 (一五二)
ところが、なぜか本葬の時は前日の夜から、翌日の葬儀が終わるまで泣き明かしているのです。 一五五は本当に葬儀後の歌なのか、感情の推移から見ると疑問なのです。 額田王に仕える侍女たちが泣き崩れれ、自身は冷静にその状況を語ることにより悲しみを表現したともとれないことはないのですが、それにしても本葬は死去から少なくとも1月は経ているでしょう。この点が疑問なのです。
次に、御陵の完成時期です。 これについては日本書紀に記事はありません。
天智記に「(天智十年)十二月の癸亥の朔乙丑(3日)に、天皇、近江宮に崩ましぬ。癸酉(8日)に新宮に殯す」とあるだけです。
天武記に目を転じます。5月に朴井連雄君は私事で美濃を訪れた時、「近江の朝廷が美濃、尾張の国司に山陵を作るために、人夫を用意しておけ」と命じていることを耳にしました。 これは山稜を作るためではなく事を起こす準備であると判断し、大海人皇子(天武天皇)に吉野脱出を奏上する記事があります。 大海人皇子は6月23日に村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広に速やかに行動を起こせと命じています。 近江の朝廷は6月26日に大海人皇子が桑名へ進出したとの報に右往左往し、慌てて対応を協議しています。
このような時期に二ヶ月で人夫を動員し、御陵を完成させ、本葬を終えることは可能なのでしょうか。 そこで次のような解釈も出てくるのです。
(やすみしし)わが大君の 恐れ多い 御陵を造っている 山科の 鏡の山に 夜は 夜通し 昼は 一日じゅう 声を上げて 泣き続けていて (ももしきの)大宮人たちは 分かれてゆくのか(『新編全集』 傍線筆者)
いよいよ近江方と吉野方の衝突が迫ってきたので、「作者らの近親者は工事現場近くの仮廬に起居し、忌み明けなど然るべき日を待って退散したのであろう」との解説をつけています。
『新編全集』は、一五五の題詞「山科の御陵より退き散くる時、額田王の作る歌一首」を鵜呑みにして、この別れを天智天皇の本葬後の別れと断じてよいのかとの疑問を投げかけてるように思えます。 たしかに、「御陵より退き散くる時」としかいっていないのですから。 上記の訳はそれに対する一つの答えのように思えるのです。
これを敷衍すると、真っ先につまずいたのは万葉集編者ではなかった。 題詞に惑わされて、この歌を本葬後の歌として、一四七からの流れで最後の一五五に位置づけてしまった、そのような疑問が湧いてくるのです。 そうしてみても、「ももしきの大宮人は去き別れなむ」が浮いていることには代わりがないのですが、何か解決の糸口はないものでしょうか。
拙案を提示します。
1、 第二句「わご大君の」の「の」は主格ではなかったか。 領格と断じたのは早計ではなかったか。
2、 第四句「御陵」を「天智陵」であると自明の如く断じたのは無理からぬ事ではあるが、これは誤解ではなかったか。
第一句から第六句 (『大系』の注釈とそれに対する私の感想を訳文のしたに添えてあります。)
訓読 | やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に | |
訳者 | 大系 | 拙訳 |
訳文 | わが大君の畏れ多い御陵にお仕えしている山科の鏡の山に、 | (やすみしし) 天智天皇が 畏れ多くも 天智天皇にとって大切な 「ももしきの(遠い昔の)大宮人X」 の御陵に仕えている 山科の 鏡の山に |
大系の注 | ○かしこきや-ヤは間投詞。カシコキ御陵とつながる。 |
筆 者 | 間投詞ヤの用法として、連体修飾語+被修飾語 にヤを挟んで、連体修飾語+ヤ+被修飾語として、語調を整える用法は存在する。 天飛ぶ鳥にもがもや 都まで 送り申して 飛び帰るもの → 天飛や 鳥にもがもや・・・・ (八七六) しかし、ここでは 「かしこきや」は「天智天皇が 陵墓に仕える」 そのことに対する「恐縮の念」 を表しているのではないか。 |
第七句から第一五句
訓読 | 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや 百磯城の 大宮人は 去き別れなむ | |
訳者 | 大系 | 拙訳 |
訳文 | 夜は毎夜、夜をこめて、昼は毎日、日もすがら泣いてばかりいたが、今はもう大宮人は別れ去ってしまうのだろうか。 | 夜は夜通し 昼は一日中 声を上げて 泣いていたが ももしきの大宮人Xと 別れてとにかく近江へ戻ろうよ |
大系の注 | ○別れなむ-ナは完了ヌの未然形。ムは推量ムの連体形 |
筆 者 | 私の解読ではナムは一語で下で述べているとおり、「とにかく一度近江へ戻ろう」との周囲の者への呼びかけと自身の気持ちの切り替えという解釈が自然に出てくる。中田祝夫新撰古語辞典では、次のようである。 なむ〔連語〕(完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」に推量の助動詞「む」のついたもの。活用語の未然形につく) きっと・・・だろう。・・・してしまおう。・・・しよう。・・・するのがよい。 |
天智天皇は生前から代理の者、たとえば額田王などを差し向けて、天武天皇自身にとって大切な「ももしきの大宮人X」の御陵に仕えさせた。 いま、その山科の鏡の山で額田王らは、天智天皇の命を受けたか、自らやって来か、「ももしきの大宮人X」を祀っている(天皇の快癒を祈願したか)。
そこへ、(祈りむなしく)天智天皇崩御の訃報が届いた(それは夕方だったか)。 悲しみ、落胆、途方に暮れて泣きあかす他はない。 翌日まで「哭のみを 泣きつつ在りてや」だった。
しかし、いつまでも泣いていても仕方ない。 気を取り直し、「ももしきの大宮人X」と別れてとにかく一度近江へもどることにした。 「去き別れなむ」は「いつまで泣いていても仕方ない。とにかく近江へ戻ろう」との周囲の者への呼びかけと自身の気持ちの切り替えを表している。
ここで一言述べたい。 私の解読からは 去き別れナムのナムは一語であって、・・・・しよう、という決意、決心、勧誘 の意味を持つことが自然に出てくる。
大系は連語としての使い方であることを指摘しながら、決意、決心とを訳出することに躊躇しているようにおもえる。この歌の場面・状況把握が私と根本から違っているからであろう。
壬申の乱前後の混乱のさなかに、天智陵を作る余裕はない。 天智陵は急遽「ももしきの(百年以上前の)大宮人X」のそばに作られ、永らく放置された。 文武三年に至ってようやく修造されたのではないか。
無論、天智以前に鏡山に「ももしきの大宮人X」の陵墓が作られたとの記録はない。 ないけれども、鏡山は鏡王一族の先祖の陵墓であった可能性はないのか。
「ももしきの(百年以上前の)大宮人X」が存在したのか。拙案の当否は考古学的調査によって検証可能なのですが、 永遠に「ももしきの迷路」をさまよう他はなさそうです。
かからむの懐知りせば大御船泊てし泊りに標結はましものを 額田王 (一五一)
拙訳 こうなるとわかってたら、天智天皇の大御船を標を結ってでも、お止めしたのに
山科での祈りは通じなかった、だったらはじめから標を張ってお止めしたかった、とでもいっているような歌です。穿ちすぎでしょうか。
やすみししわご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎 舎人吉年 (一五二)
拙訳 天智天皇の大御船の帰りをいくら志賀の辛崎は待ち焦がれているけど、もう帰ってはこない。
「ももしきは百石城か その1」で 中大兄皇子が遷都した先は、近江大津宮ではなく高穴穂宮跡地に造られた近江宮であり、現在穴太廃寺跡として残っていると述べました。湖上から穴太への入り口に位置するのが志賀の辛崎です。 近江宮に崩御した天智天皇の亡骸は大津の新宮(近江大津錦織遺跡)に運ばれ、お船入り(皇族の納棺はお船入りと呼ばれる)した。 天智天皇の生前の宮殿が近江大津宮であったら、志賀の辛崎が天智天皇が船に乗って帰ってくるのを待つ理由が不明です。